静寂の蒼穹

a0096546_10462163.jpg

光の色と肌理が記憶から消え去り、月が太陽に姿を変え、太陽が記憶に変わると、
視線はものの形よりも匂いが語りかけるものに惹かれ、目はものを見るよりも風の言葉に
耳を傾けようとする。
 夜が大地と空にしみこみ、人間の心と時間、それに記憶の奥にまで深く浸透して、
すべてを永遠に包み込んでしまうと、後は本能だけを頼りに進むべき道を見つけだし、
影の中を通り過ぎながら何の影か推測し、匂いと音が伝えてくる言葉を読み取るしかない。


彼女はもう耐えきれなくなっていた。折れた枝のように身体を二つに折ると、
ぼくを床に引きずり倒し、ぼくの目を黒い光で満たす。完全な夜。果てしない錯乱。
時間の蒼穹がぶつかり合う二つの川のように鈍い唸り声を上げてわれわれの上に落ちかかってくる。
ぶつかり合い、溶けあう二つの川。ぶつかり合い、溶けあい、そしてまた溶けあう二つの川。


外では、静寂が熟れた果実のように重く垂れこめている。雨までが来るべき悲劇を予感して
音を潜めているようだ。死の予感。


明け方洞窟に戻ると、静寂が洞窟の入り口までぼくを出迎えてくれる。静寂は通路を完全に満たし、
薄汚れた霧のように岩の亀裂やレダマの茂みの奥まで入り込んでいる。
 以前、ラミーロが生きていたころは、チラッと彼のほうを見るか、ひとこと言葉をかけるだけで
静寂を追い払うことができた。しかし、今ではこのじめじめした巣穴をふたたび、
そしておそらくは完全に支配している。静寂は時間の始まる夜からここにすみついている。
人の声では、その均衡を、山とぼくの心の奥に巣くっている静寂の深いうめき声を破ることはできない。
しかし、それに慣れるまでには長い時間がかかった。最初のうちは孤独の重圧に耐えきれず、
毛布の中でよく寝がえりをうったものだった。自分を待ち伏せている獣の吐息が
すぐそばで聞こえたような気がして、夜中によく飛び起きた。何度となく洞窟から飛び出して、
山の中を何時間もあてとなくさまよい、むだと知りつつ完璧な静寂がもたらす狂気から逃れようとした。
やがて、静寂が目の前にあって、いつも付きまとってくるが、これだけは避けようがないということを
少しずつ受け入れるようになった。少しずつ、彼、つまり静寂が今の自分に残された
たった一人の友達なのだということを認めるようになった。
 死を相手に長い戦いを続けている今では、静寂こそがぼくの最良の盟友なのだ。洞窟に戻ると、
静寂はまるで犬のように嬉しそうにぼくを入り口まで迎えにきてくれる。


―『狼たちの月』より
[PR]
by worthy42 | 2010-02-27 10:49 | 美句妙文礼賛(魅惑の文言集)
<< ジャズと占い師 マイ・ニュー・ルーティン >>